風の歌を聴きながら

韓国語レベル万年中級者の気まぐれ翻訳ブログ。

HYUKOH ヒョゴ オヒョク インタビュー(週刊朝鮮)【和訳】

 

‘혁오’ 리더 오혁 최초 인터뷰 3시간   주간조선 >

2017.10.30

 

  • 「ヒョゴ」リーダー オヒョク 初インタビュー 3時間

「青春を歌い世代間の葛藤を減らしたい」

 

 2014年9月18日、これまで聞いたこともないジャンルの曲を携えてあるインディーバンドが登場した。バンド名はヒョゴ。インディーバンドとは、自身が望む音楽だけを作るために企画会社に所属せず、独立的に音楽活動をするグループだ。当時、4人組ヒョゴのボーカル兼リーダーのオヒョクは21歳(韓国年齢)だった。彼が携えてきた曲はタイトルからして平凡なものではなかった。「Wi Ing Wi Ing」「Comes and Goes」…。彼がアルバムを作りだす過程も平坦ではなかった。彼は自身の新しい部屋の保証金1000万ウォンのうち500万ウォンを投資した。

 

 彼の初アルバムは紆余曲折の末、日の目を見ることになった。彼は企画会社で企画された歌手とは本質的に異なった。結局彼は誰の助けも借りず、最初で最後という覚悟でアルバムを出した。歌謡界と放送局ではヒョゴに注目する人はほとんどいなかった。数多くのインディーバンドのようにヒョゴもそうして終わっていくと思われた。そのように7ヶ月が過ぎていった。その間大衆はYouTubeを通して彼の音楽に徐々に引きこまれ始めた。

 

 2015年4月、KBS2「ユヒヨルのスケッチブック」がヒョゴを呼び出した。歌手人生の転換点を迎えた。この放送を注意深く見ていたMBCのキムテホPDが再びヒョゴを「無限に挑戦」に出演依頼した。2015年7月、MBCの「無限に挑戦」に出演した直後からヒョゴの人気はうなぎ登りになった。彼の真価に気付いたファンたちがヒョゴに押し寄せ始めた。

 

 現在ヒョゴは韓国歌謡史を塗り替えている。彼の曲はインディーバンド出身というハンデにもかかわらず音源上位圏に位置している。2015年7月の国内最大音源サイトMelonの人気順位を見てみよう。当時ヒョゴは人気アイドル「EXO」を制し2位を記録した。1位は「BIGBANG」だった。デビューして1年も経たないインディーバンドが見せた音源成績表だった。

 

 2016年オヒョクはドラマ「応答せよ1998」のOSTである「少女」をソロで披露し、再び大きな話題となった。イムンセのヒット曲をリメイクしたこの曲は公開当時Melon、Genie、Ollehmusicなど国内主要音源サイト8ヶ所で1位の座を独占した。オヒョクの「少女」はドラマが放送終了してからも、国内最大音源サイトMelonで実に29週間100位圏内に位置するという新記録を達成した。彼の人気は相変わらず現在進行中だ。去る4月に発売されたヒョゴの正規アルバム「23」の「TOMBOY」はMnet「M Count Down」とSBS「人気歌謡」で1位候補に上がりもした。5月11日、Mnet「M Count Down」でヒョゴはアイドル「Winner」を制し1位となった。これと関連して、シンガーソングライターのユンジョンシンはヒョゴを「ジャンルを規定することが出来ない、主流とは異なる独自的な音楽をしているチーム」と評価した。

 

 オヒョクの経歴は独特だ。彼は中国で幼年期と青少年期を過ごした。昨年、中国最大動画サービス企業LeEcoミュージックの尹亮代表は「韓国の歌手の中で一番関心を寄せて見ている歌手がヒョゴ」だと話した。オヒョクは今年4月ドイツのファッション雑誌「Highsnobiety Magagine」の表紙モデルとして登場した。この雑誌はオヒョクについて「新しいウェーブを代表し、世界に出ていく準備が出来ている人」と絶賛した。

 

 「ヒョゴ」のリーダーオヒョクとのインタビュー交渉は簡単ではなかった。8月から計画していたインタビューは10月になってようやく実を結んだ。彼のタイトなワールドツアーのスケジュールのためだった。バンドヒョゴは5月から8月にわたって香港、タイ、マレーシアなどアジアの主要国家で単独公演を開催し、全公演ソールドアウトを記録した。デビュー3年目の歌手が東南アジアではなく米州やヨーロッパでワールドツアー公演をするということは、前例を探すのが難しい。バンドヒョゴはヨーロッパ公演のため、10月26日にヨーロッパに旅立った。オヒョクはワールドツアー期間中、韓国に少し滞在したときに週刊朝鮮のインタビューに応じてくれた。10月20日、ソウル西大門区にあるヒョゴの作業室で彼に会い、3時間の間単独インタビューを進行した。彼はインタビューに応じながら「こんなに自分の全てのことを話すのはデビュー以来初めて」だと強調した。

 

―中国で学生時代を過ごしたことが自身の人生にどんな影響を及ぼしているか。

 今までの自分の人生の8割が中国での生活だ。生まれてすぐ中国に渡り19歳まで中国で過ごした。父が中国で宣教活動をする宣教師だったためだ。父と母はいつも施しの人生を送った。中国での生活は豊かで贅沢ではなかったが、家族が一緒だったので幸せだった。他国で感じた孤独を漠然と音楽に表現し始めた時期でもある。

 

―いつからミュージシャンを夢見るようになったのか。

 本格的に歌手になろうと考えていたというよりは単純に音楽が好きだった。僕は束縛される人生は好きでなない。その点で音楽は自由そのものだった。中学生の時にボーカルの授業を聞いた。初めはR&Bジャンルの曲を聞いてマネして歌った。黒人ソウル音楽にも関心があった。そうしてるうちにインディー音楽に音楽世界を広げていった。だからなのか曲を作る時もある特定のジャンルにこだわって作業はしない。

 

 ヒョゴが見せる音楽ジャンルはコレと規定するのが難しい。彼のデビューアルバム「20」は10代の最後である19歳~20歳あたりに書いた6曲が入っている。そのためデビューアルバムは10代の終わりと20代の始まりの間で感じる不安感と虚無感が入り混じって表現されている。ヒョゴは20代の感情を再解析し目新しい声で聴かせてくれる。既存の歌との最も大きな違いはまさにこれだ。つらい青春に共感するフリをする既存世代の粗雑な慰めではない。彼は実際に青春の真っただ中に立っている20代として同年代の人生に共感し、自身の話をはばかることなく解きほどいている。

 

―ヒョゴは同い年で編成されているがどのように出会ったのか。

 弘益大学芸術学科に入学し20歳になった年に韓国での生活が始まった。たぶん本格的な音楽活動はこのときから始まったと言えるだろう。始めは音楽サークルの活動のように気の合う仲間たちとバンドを結成した。だが最初に音楽を一緒にやっていた友人たちは軍入隊と学校生活のせいでお互い違う道を歩むことになった。その後本当に音楽だけを目的に集まった友人たちと再びバンドを結成することになった。

 

―メンバー間の意見の衝突はないのか。

 (カラッと笑いながら)衝突がないわけがない。メンバーが担当する楽器がそれぞれ違うように音楽的見解もまたみんな違う。むしろ違う音楽的見解のおかげで多様な意見がたくさん出てくる。その意見に耳を傾けてお互い調節して曲を作ろうとしている。とりあえずメンバーたちは僕の意見を全的に信じて付いてきてくれた。メンバーにはいつも感謝している。

 

―バンド名が「ヒョゴ」だが、なぜそのように名付けたのか。

 (頭をかきながら)もともとは僕が「オイルマネー」にしたらどうかという意見を出した。2010年初中盤はヒップホップが流行っていた時期で各所で○○マネーが流行だった。それで冗談半分本気半分で意見を出した。チーム名を決めることは思っていたより簡単ではなかった。数ヶ月、チーム名の選定だけに悩んでいた気がする。学校の先輩4人も一緒に考えてくれたが、良い案が出ず「  」にしろと言われた(大きく笑いながら)。それでなんとなく自分の名前をかけることにした。いつかヒョゴが音楽界で「代名詞」として呼ばれる日が来ればという思いから付けた。

 

―作業をするときインスピレーションはどのように得るか。

  (目をそっと閉じながら)僕は音楽作業をするとき目を閉じて頭の中で絵を描くように曲を描いてみる。まず最初に色を思い浮かべる。どんな色の曲を作るかが重要だ。色が決まれば、そこに合うリズムと歌詞を構成する。だから僕がインスピレーションを得る方法は全ての視覚的要素だ。それが映画になるときもあるし、絵になるときもあるし、ただ風景になるときもある。事物から感じられる雰囲気も曲として作ることが出来る。目に見える全ての視覚的要素が僕の音楽的素材だ。

 

―聴覚ではなく視覚的要素からインスピレーションを得るとは変わっている。

 視覚的要素からインスピレーションを得た曲は色々あるが、特に紹介したい曲が「Gondry」だ。「Gondry」は映画「Eternal Sunshine」の監督の名前だ。題名から推し量れるように映画「Eternal Sunshine」からインスピレーションを得た。映画から感じられた雰囲気を曲に表現した。明け方にかけまわる灯りとさわやかな朝焼けが感じられた。すぐ曲に描きだした。

 

―音楽的メンターはいるか。

  僕はインディーバンドなので大衆的な趣向や大衆の関心事を把握する能力が不足している。だから曲の作業を終えたあとタイトル曲を決める時は、周囲の人にたくさん聞いてみる方だ。特に歌手IUがタイトル曲を決める時に多くのアドバイスをくれた。IUとは1993年生まれの同い年でお互いに仲の良い友達だ。CLも僕に多くのアドバイスをしてくれる。

 

―影響を受けたミュージシャンがいるとしたら誰か。

 韓国では「들국화」先輩に多くの影響を受けた。들국화は1980年代後半の韓国大衆音楽の復興をけん引した。ヒョゴがロールモデルにしているグループでもある。イギリスのロックバンド「ビートルズ」も外せない。アメリカでブルース、ゴスペル、ジャズなどのさまざまな様式に合わせて黒人音楽の成長を引っ張ったレイチャールズもやはり多くの影響を受けたミュージシャンだ。幅広い音楽的スペクトルを通して一つの時代を引っ張るミュージシャンたちを見て学び、刺激を受ける。

 

―ベートーベンは主に真夜中にピアノを弾いて曲を作り、周囲の人を苦労させた。主にいつ音楽作業をよくするのか。

 ベートーベンと似たような共通点があるとは不思議だ(満面の笑みを浮かべて)。僕も真夜中に主に曲を作る。0時を越して夜中の3~4時まで曲作業に没頭するときが多い。不思議とその時間に集中できるんだ。忙しいスケジュールのせいで、朝や昼に時間ができても疲れているからか寝てしまうことが多い。

 

―ヒョゴの曲を愛するファン層の年代は幅広い方だ。

 たぶん色々なジャンルの歌手と一緒に共同作業をしていることも大きな要因だ。だからなのか、インディーバンドを好んでくれるファンはもちろん、大衆的な音楽を好むファンまで、ファン層が厚い。静かな雰囲気の曲もかなりあるので40代以上のファンも多い。IUやPrimaryなど多くの歌手とコラボレーションをしている。イムンセ先輩の「少女」をリメイクして歌ったりもした。特定のジャンルに縛られない。自由な音楽を追求して、様々な歌手と新しい作業をすることは楽しいことだ。

 

―自身の音楽を単語もしくは色で簡潔に表現するとしたら。

 (しばらく考えて)うーん、灰色。灰色があってこそ他の色が目立つし、その色の真価が現れるのではないか。またどんな音楽であれ盛り込む準備ができているという意味もある。

 

―バンドヒョゴが追求する音楽的ジャンルは何か。

 断定的に答えを出すのが難しい。だから自分たちの音楽をただ「オルタナティブロック」と表現する。

 

オルタナティブロックとは、既存のメタル的な性向から抜け出した全てのロック音楽を指す用語。

 

―一番愛着のある曲を選ぶとしたら。

 「TOMBOY」だ。この曲は本当につらくて大変な思いで作った曲でもある。実に1年以上も取り組んで作業した曲だ。こうしてまで長い時間がかかって生まれた曲は初めてだった。ちなみに「Wi Ing Wi Ing」は20分で完成した曲だ。他の曲も数日以内に完成した場合が多い。青春の生を表現したかった。歌詞を書くときも慎重にならざるを得なかった。

 

―多くのファンたちもやはり「TOMBOY」を最高の曲として上げている。

 本当にありがたいことだ。実は「TOMBOY」はタイトル曲に選ばれないところだった。会社関係者たちには同じアルバムの「革ジャケット」という曲の反応の方が良かったからだ。これまで出してきた曲とは全く異なる雰囲気の曲だから、タイトル曲に選ばれるには負担があったことも事実だ。だが僕が「TOMBOY」をタイトル曲にしようと最後まで粘った。それほど自信があった。

 

―歌詞が詩的で哲学的だが本はよく読む方か。

  実は最近は本当にスケジュールが忙しくて本を読めていない。しかし学生時代は文学が好きで詩や小説をたくさん読んだ。そのときの経験が歌詞を描くときに役に立っている。読書をあまりできなくても、映画や公演などを見て文化的な活動を多くするように努力している。

 

僕は今幸せだ だから不安だ

暴風の前の海はいつも静かだから

火がついて早く広がったらだめじゃない

僕は愛を応援する

若い僕たち、その歳のときにはよく見えなくて

まぶしい光に目が遠くくらんでいくのに

あああああ

悲しい大人はいつも後ずさりばかりして

醜い二十歳を超えた僕はつまらなそうに見える

火がついて早くひろがったらだめじゃない

僕たちは愛を応援する

―ヒョゴ「TOM BOY」歌詞より

 

 オヒョクは落ち着いていて言葉数が少ない方だった。それでも音楽に関連する質問が出た時は自身の哲学をはっきりと述べた。長いインタビューにも関わらず彼の中低音の声に集中した。初めはやや硬かった彼は、インタビューの中盤頃から緊張が解けたのか表情が明るくなった。初アルバムの誕生秘話からワールドツアーで感じた経験談まで、彼は憚ることなく話をし始めた。彼は自身の人生哲学と社会現象についての見解を話しもした。彼は自由と幸せを追求した。24歳という年齢らしからぬ彼は考えが深く、自身の哲学が明確だった。

 

―一人でいるときは主に何をして過ごすか。

 (この質問に彼の目つきが変わった。)主に映画を観る。憂鬱だったりつらいときに観る映画がある。「Somewhere」だ。ある有名な俳優が、ある日自分を訪ねてきた11歳の娘と共に過ごしながら人生を振り返るという単純な内容だ。この映画は50回以上観た。映画がものすごく大作だからそれほど観たわけではない。ただこの映画を観ると気分が落ち着く感じ。この映画を観たあと曲がよく思い浮かんだりした。

 

―オヒョクが考える青春とは何か。

 青春はきらびやかだけれど永遠なものではない。青春の始まりがあるとすれば必ずその終わりも存在するものだ。無謀になれて、情熱的になれる時期がまさに青春だ。だが青春が終わりかけているということを少しずつ感じるにつれ、どんな気分になるか思い浮かべてみる。不安だと思う。これまで経験できなかったしっかりした大人になるのではないか。そんな青春の、きらびやかながらも不安な二面性を表現した曲がまさに「TOMBOY」だ。

 

―孤独を楽しむ方か。

 孤独は皮肉な存在だ。人は孤独ではやっていけないが、また孤独がなくてもやっていけないからだ。僕は孤独を楽しむ人ではない。だが僕にも時には孤独は必要だ。一人でいるときにだけ出来ることがあり、刺激を受けることが多いからだ。

 

―恋愛はしてきたか。その経験が音楽に表れているか。

 もちろん恋愛はしてきた。だが僕の曲の中で愛を歌った曲は多くない。メンバーの恋愛談を込めた曲はある。「2002 WorldCup」はメンバーの初恋の話をもとに作った曲だ。僕の曲の歌詞は自分の話だったり周りの人々の話を素材にした曲が多い。

 

 ―本人の恋愛談が込められた曲はないのか。

  (迷って)「Paul」という曲が僕の話を込めた曲だ。でも事実20%と虚構80%を混ぜた曲という点を分かってほしい。これから愛を素材にした曲をたくさん書きたい。

 

―自身の人生で最も大事な価値は何か。

 それは「幸せ」だ。僕はいつも幸せな生を追及しているが、果たして本当の幸せとはどんなものなのか疑問に思うときが多い。自分がやりたいことだけやって生きれば果たして幸せになるだろうかと考える。やりたいことをやるためにやりたくないことをやる人も多いからだ。そうやって悩みながら真の答えを探していく過程こそが幸せを見つける過程なのだと思う。

 

―幸せについての悩みが多いようだ。

 初めて話すことだが、次のアルバムの主題はまさに「幸せ」になるだろう。本当の幸せを探す過程を込めようとしている。絶対的な幸せと相対的な幸せについての定義を出すために悩んでいるところだ。単純に他人にかっこよく見える人生が幸せとは限らないという考えだ。

 

―韓国社会の体面を気にする文化についてどう考えるか。

 体面を気にする文化は単に韓国にだけ限定されたものではないと思う。特に韓国は年齢、階級、役職が与える外形秩序がある。その年相応の、その役職に見合うと思われる役割が重要なことは事実だ。だから20歳のときに韓国に来たとき、そのような文化のせいで大変だった。人に見られる自分の姿が重要だったからだ。だがそういった体面にこだわっていると自由な想像力と創造力が抑圧されてしまうものだ。これからは体面ではなく内面を見る文化が定着していくことを望む。

 

 オヒョクは大衆を意識して曲を作らない。むしろファンが聴くには居心地の悪い音楽になりもするだろう。彼はかつて大衆受けする曲を作ろうと苦労したこともあった。しかし今は大衆を意識せず自身だけの音楽を追求することに決めた。大衆の反応を意識すればするほど曲がうまく作れなかった。現在彼はやりたい音楽を自信を持って作り、披露しようという考えを持っている。

 

―24歳の歌手として韓国社会の一番深刻な問題は何だと考えるか。

 世代間の葛藤だ。今韓国の中心を成している既存の世代と若い世代は考えが違い価値観が違う。だから衝突が生じたりもする。これからは韓国社会も多様性を認め、お互いの意見に耳を傾ける姿勢が必要だと思う。僕は若い世代の視点から歌を歌い、世代間の葛藤を減らしていく役割を果たしていきたい。

 

 ―ミュージシャンとして韓国の創作環境についてどう考えるか。

  韓国の創作環境はかなり自由な方だ。だが多様性の面では色々不足している。最近ある音源サイトに接続して人気順位を見てみたことがある。そうしたら1位から100位までにランキングした曲の大部分がアイドルの音源だったりダンスやバラードだった。インディーバンドの曲はほとんどなかった。何であれ一方に偏ると副作用が生じる。

 

―しかしK-POPを中心として韓流旋風は凄くないか。

  世界中に吹きつける韓流は凄い。しかし韓流は大衆音楽にだけ限定されていて惜しいばかりだ。韓国にも多様な音楽が存在し、また多様な音楽をしているミュージシャンたちもいるという事実を知らせたい。これからは韓国のインディーバンドたちが韓流の主役としてあがることも新しくないだろうか。

 

―自身の記事についているコメントや関連SNSを細かくチェックする方か。

 (笑いながら)実は怖がりなタイプなので自分に関連した記事やSNSはあまりチェックしない。もしかしたら悪評を見て傷つくかもしれないからだ。そうはいっても気になりはして、たまにフェイスブックをチェックしたりする。実名をもとに作成するスレッドなんかは相対的に中傷が少なかった。

 

―現在ヒョゴはワールドツアーを回っているが。

 日本、東南アジア、アメリカを回ってこれからヨーロッパに公演をしに出発する。マレーシアなんかは反応がかなり熱かった。アメリカではニューヨーク、ボストンなど7か所の地域を回ったが1000席前後の客席がいっぱいに埋まった。韓国人だけでなく色々な人種の人が集まって公演を楽しむ姿が印象的だった。ところが日本は公演を楽しむ文化ではなく傾聴する文化だった。とても静かに公演を楽しんでいて僕の呼吸音が聞こえるほどだった。

 

―来る12月オリンピック公園Kアートホールでのコンサートを準備していると聞いた。

 ワールドツアーを終えて韓国で12月にコンサートを準備している。真ん中の円形ステージを中心に観客が集まって楽しめるように準備した。公演にかなり気を遣った。ヒョゴの曲をしっかり感じられるようなコンサートになるだろうと自負している。

 

―4ヶ国語を駆使することで知られているが、海外進出の計画はあるか。

 僕が追求する音楽の本場であるアメリカ進出を計画している。来年から本格的にアメリカ市場を攻略しようと思っている。

 

―次のアルバムはいつ発売する計画か。

 来年春に音源発売を目標に曲を準備している。新曲は先に話した通り、「幸せ」をテーマにした曲になるだろう。ヒョゴと一緒に多くのファンも本当の幸せが何かを探すことを願う。

 

―30年後にどのような姿になっていると思うか。

 韓国を代表する音楽スタジオを建てたい。30年後にはミュージシャンでありながら「スタジオ」を運営して生きているのではないだろうか。実力はあるがひもじい音楽専門家たちが多い。特にデジタル時代においてアナログ音楽専門家たちはますます厳しくなっている。しかしそのようなアナログ専門家たちがいなくては音楽は多様性を帯び発展していかない。そのような専門家たちを一か所に集めたい。(笑いながら)そうしようと思ったら建物を建てなければならないから一生懸命活動するしかなさそうだ。

 

―これからどんなミュージシャンになりたいか。

 良い人になりたい。良いミュージシャンになるためにはまず良い人になりたい。僕が考える良い人とは単純だ。ウソがなく見栄がない人でなければならない。そんな人生を追求する。

 

 3時間にわたるインタビューを終えたあとにもオヒョクは言いたいことが多いのか惜しんでいた。彼は「楽しい雰囲気で初めて僕の考えを具体的に話した意味のある初インタビュー」だと話した。オヒョクは義理を大事にする。彼のマネージャーは、彼が20歳のときから弘益大の近くで一人暮らしをしていたときに一緒に過ごしたお隣さんだ。一間の部屋でお互い夢を育てながら応援していた同志だった。オヒョクを誰よりよく知っているその人は今、彼を助けている。

 

 去る9月27日、12月のヒョゴコンサート1次前売りチケットが5分で完売した。携帯ブランド製造社のBeats Electronicsの会長ルーク・ウッドは「ヒョゴは世界を掌握するバンドであり、ロック音楽を今も独創的に再定義することができるということを見せてくれるチーム」だと激賛した。まだオヒョクの音楽世界を規定するには早い。彼は今、自身の音楽世界を深め、広げている最中だ。